富山の文化的風土11 「相馬御風と郷倉千靱@─出会いと共感」

 
     
   郷倉千靱は画家をはじめ美術関係者に限らず、多くの文化人、知識人と親交を持った  
  そのなかでも、公私にわたり長い付き合いとなった一人に、詩人で評論家の相馬御風  
  1883〜1950)がいる。御風は早稲田大学卒業後、三木露風、野口雨情らとともに口  
  語自由詩を提唱し、明治期の自然主義文芸運動をリード。大正期に入り、トルストイに  
  傾倒してロシア文学の翻訳を多数手掛ける。その後、郷里の新潟県糸魚川に拠点を移  
  し、同郷である良寛の研究に打ち込むとともに、詩、短歌、随筆と多彩な文筆活動を展  
  開。童謡「春よ来い」の作詞等で知られている。  
   そんな相馬御風と郷倉千靱との出会いは、1920年(大正10年)頃。千靱が富山県小杉町  
  (現・射水市)の実家に帰省する折、糸魚川の御風宅を訪れたのが始まりだった。千  
  靱はその時、日本美術院の先輩で御風と親しかった安田靫彦の紹介状と作家・大仏次郎  
  の実弟で天文学者の野尻抱影の名刺を持参していた。そして、後に御風の書くところで  
  は、安田靫彦の紹介状には次のように書かれていたという。  
   「・・・・・・郷倉千靱氏は美術院の院友にて特色ある作家に有之詩や歌をもよくせられ小  
  生も豫て親しく倒居候。良寛和尚崇敬者の一人にてこの度遺跡巡杖を思立たれ先ず貴臺  
  の拝芝を得て親く御高説承り度切願され居候に付小生も欣びて御紹介申上ぐる次第に有  
  之何卒御會ひたまはり候はばまことによろこばしく存候・・・・・・」(「美之国」1926年5  
  月号『郷倉千靱氏の印象』)  
   つまり、千靱が御風を訪ねた切っ掛けは“良寛”。その縁から、後日御風の良寛に関  
  する書籍の装幀、装画の多くを千靱が手懸けることになった。そればかりではなく、と  
  もに北陸出身者ということもあって、二人が背負う文化的風土というものの共感もあっ  
  たのだろう。“良寛”以外にも、“歌”“自然”“人生”と様々な話題を交わし、初対  
  面から気が合ったという。以降、二人の関係は親密さを増し、相馬御風は日本画家・郷  
  倉千靱の作品世界にも深い共感を寄せるようになっていく。そうして、御風は千靱の芸  
  術的真価を「たましいの寂び」として、次のように評している。  
   「郷倉氏の藝術は『寂び』に徹して始めて眞の光を放つべき藝術であるやうな氣がす  
  る。その意味で氏の前途は長い。前途が長いことは、生命の永いことを意味する。年齢  
  を重ねるに従って氏の藝術はますますその特色を鮮やかにして行くであらう。多くの藝  
  術家にとりて『哀へ』を意味するところの『老い』も、氏にとりては却って『徹』であ  
  り『醇』であるであろう」(同前)  
   御風と出会った大正後期、郷倉千靱は雑草が覆い茂る土壌やそこに息づく虫や小動物  
  を、主なる主題として描いていた。それらは地味な世界ではあるが、目の前の自然と率  
  直に相対し、ささやかでもかけがえのない生命の息遣いを湛える。それを御風が「たま  
  しいの寂び」と評したのは、世にいう“枯淡の美”などという意味ではなく、むしろ見  
  た目に囚われず自由濶達な純真さ、等身大の美意識ということになるのだろう。故に、  
  彼の“たましい”は、歳を重ねても“枯れ”ずに“芳醇さ”を増すというわけだ。  
  そして、それは“良寛”にも、御風の美学にも通じる。その後、昭和に至り、千靱はそ  
  れまでの黄土系を主とした渋い色調から一転、明るく鮮やかな画面へと変貌を遂げてい  
  く。それも単にスタイルとしてのモダニズムへの傾倒というのではなく、関東大震災か  
  ら近代的都市へと復興した“大東京”に息づく生活観に率直、敏感に反応した、等身大  
  の美意識ということにもなるだろう。  
     
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第11回「富山の文化的風土」2009年3月21日発行

 
     
     
     
 
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