富山の文化的風土12 「相馬御風と郷倉千靱A─出版活動のパートナーとして」

 
     
   郷倉千靱は富山に帰省する際に、度々糸魚川を訪れては、相馬御風と“良寛”に関する  
  話に華を咲かせるとともに、頻繁に手紙のやり取りをしながら親交を深めていった。そう  
  した私的な交友関係は、すぐに互いの仕事にも繋がっていくこととなる。それは出版の分  
  野において。大正末から、御風の著書が出版されるに当たって、千靱は幾多の装幀、装画  
  を手懸けた他、御風が主宰していた文芸雑誌「野を歩む者」のカットなども描いた。当時  
  、小説の挿絵や本の装幀は、アルバイトとして多くの画家が手を染めていたが、千靱にと  
  っては、御風との出会いが、まさに出版美術への足がかりとなったといえる。  
   特に、実業之日本社から刊行された御風の子供向け伝記類のほとんどに関り、「良寛さ  
  ま」、「一茶さま」、「西行さま」、「良寛と蕩児」、「続良寛さま」等を担当した。そ  
  れらの書籍は子供向けということもあって、華やかに彩られ、数多くの挿絵も取り入れら  
  れている。  
  ただ、千靱自身は当初、活字による物語的世界を絵にするということに関して、少々苦手  
  意識を持っていたのかもしれない。各書籍とも、外函に表紙、見返し等の装幀と多色刷の  
  口絵は手懸けてはいるが、本文の挿絵に関しては、当時日本美術院の院友であった後輩の  
  画家達に委ねている。唯一、自身で装幀、口絵そして挿絵まで総てこなしているのは、  
  1935年(昭和10年)刊行の「続良寛さま」のみ。それまでも口絵では良寛の姿を描 いてはき  
  たが、同書ではエピソードに富む良寛の人生の各場面をユーモラスに表現している。千靱  
  の描く良寛は、穏やかで暖かい人柄というのとは少々異なり、尖った顎と頬骨のはった  
  相貌に、精悍かつ軽快で飄々とした雰囲気が漂っている。  
   郷倉千靱は昭和に入り、「母子鳥韻」(1927年)、「拾卵図」(1931年)のような神話的物  
  語をテーマとして院展に出品している。そこには、御風を通じた出版の仕事の影響も大き  
  かったのかもしれない。当時、画家は相馬御風への手紙のなかでも装幀、口絵、カットに  
  ついての苦労や悩みを度々書いている。特に、時代考証はもとより、各主人公が生きた地  
  域的風土性とでもいうべき表現について神経を使っているようだ。その一つ、「一茶さ  
  ま」の口絵について、千が著者・御風に書き送っている。  
   「私の描きました少年一茶さんの背景は先頃信州の友人が上京しました際 茅の『にゆ  
  う』のことを聴き その様に描いて見ましたが 当地へ参ゐり見ますと 茅の『にゆう』  
  は殆ど船形になつてゐます図の様に相原もすぐ近くのことゝて これは困ツたなと思いま  
  した。早急描き直し度いと存じまして兎も角一応この辺の百姓に聞いて見ますと 相原辺  
  では やはり稲の『にゆう』の様に積みますから安心なさい云つて呉れましたのでほツと  
  してゐます 然し初夏の景物と云ふよりも どうも秋らしくなツて見えることを懸念して  
  ゐます」(1932年8月8日)  
     
 

 
     
   ここで言われる“にゆう”とは、積み藁のこと。千靱は、小林一茶の郷里である信州相  
  原では刈った茅を積み重ねる“にゆう”が農村の風物詩であると、信州の友人から聞いた  
  。そこで、農家に生まれ育った一茶の少年時代の象徴的情景として、“にゆう”をバック  
  に一羽の雀を見ている幼い一茶の姿を描いた。友人の話では、“にゆう”は茅の根元を縛  
  った束を逆さにして帽子の積み上げていくものと考えられたのだが、相原近くに行ってみ  
  ると、束を横にして船形に積み上げてあった。それを見て「シマッタ!」と思った千  
  が、地元の百姓に「ここは違うが、相原辺りでは束を逆さにして積み上げていく」と聞い  
  てほっとしているという内容。そこには、後に釈迦や玄奘三蔵をテーマにした宗教物語の  
  壁画を描くに当たっても、物語の舞台となる地域の風土や風俗そして時代性に強いこだわ  
  りを持った、郷倉千の画家としての気質が垣間見られる。  
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第12回「富山の文化的風土」2009年3月21日発行

 
     
     
     
 
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