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富山の文化的風土13 「相馬御風と郷倉千靭B─北陸人の文化的気質」 |
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| 相馬御風と郷倉千靭の親交には、同じ北陸人としての気質のようなものが強く反映され | ||
| ているような気がする。御風は早稲田大学、千靭は東京美術学校と東京で高等教育を受け | ||
| ながらも、ともに生まれ育った北陸の文化的風土というものに生涯こだわり続けた。そし | ||
| て、それが二人の関係をさらに密にしたといってもいいだろう。例えば、良寛のように愛 | ||
| 着のある“地”に根差し、自身ありのままの素直さで淡々と生きることへの共感もそうい | ||
| うところにあるのかもしれない。そしてもう一つ、御風と千靭が共有した北陸的文化の一 | ||
| つに、“小杉焼”を挙げてもいいだろう。 | ||
| 1915年(大正5年)33歳で東京を引き揚げ、糸魚川に居を構えた相馬御風は、以降当地 の | ||
| 文化に浸る生活を終生送った。そうした生活の機微を、御風は「身辺雑記」として綴り、 | ||
| 随筆集のなかに収めている。そんななかに、次のような一編がある。 | ||
| 「糸魚川名物の一つとして、たて茶又はばたばた茶といふ風習がある。これはこのあた | ||
| りに限り、大概の家で昔から毎日茶をたてて飲むことにしてゐる…。それをいふのである | ||
| 。 茶は番茶を煮出したのを下手物の茶碗に柄杓で注入し、それを山竹を二本つらねた茶 | ||
| 筌でばたばた音をさせて泡立ててのむのである」(「糸魚川より」1937年 春陽堂刊) | ||
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そうして御風自身も日々茶を嗜むうちに、多くの茶碗を蒐集するようになったとして、 |
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| こう続ける。 | ||
| 「私はあちこちあさって昔から此の地方で使ひ古して来たばたばた茶の茶碗を幾つか | ||
| 蒐集した。すると驚くべし。中には李朝風の染付のドッシリしたものがあり、絵唐津らし | ||
| いゴス絵のものがあり、古い布志奈青磁の天目様のものがあり、又新しい布志奈の枇杷色 | ||
| のがあり、越中の小杉焼のがあり等々その種類はなかなか少なくないのである」(同前) | ||
| 御風が愛着を感じていたのは、茶道に通じた数寄者好みの名器というものではなく、日 | ||
| 用使いの雑記の数々。そのなかに、富山の生活雑器であった小杉焼も入っていたことが、 | ||
| 郷倉千靭との関係を思わせる。 | ||
| 先の文章が書かれたのは、1936年から37年にかけて。それより少し前、1934年(昭和9 | ||
| 年)に郷倉千靭は郷里・富山県小杉町の有志とともに「小杉焼研究会」を立ち上げ、地元 | ||
| の陶芸文化の歴史的研究・調査を始めた。そうしたことは、親交のあった御風との間でも | ||
| 話題になっただろうし、御風も以前から、小杉焼について多少の知識があったに違いな | ||
| い。事実、当時千靭が御風に宛てた手紙には、小杉焼の関す記述が幾つか見当たる。 | ||
| 「小杉焼の写真有難拝見しました。それぞれ面白く拝見しましたが、就中香炉は気に入 | ||
| りました。真物を見なくてはなんとも申上げられないので孰れ来月中旬帰郷の際お見せ | ||
| 頂くを楽しみにいたしてゐます」(1934年10月23日) | ||
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「初代小杉焼(鉄釉)お気に召しましたかしら」(1935年5月27日) |
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| 「例の小杉焼の写真の件甚だ恐縮ながらなるべく早く御撮影の上、片口氏まで御届け | ||
| 願上候」(1935年11月29日)等々。 | ||
| 片口とは、当時千靭とともに小杉焼研究会のメンバーで、後に小杉町長等を務めた片口 | ||
| 安太郎のこと。御風とのやり取りの中で、御風所有の小杉焼を見て、同研究会の調査対象 | ||
| に加えるために協力を求めるとともに、千靭所蔵の初期小杉焼の一点を御風に進呈したの | ||
| かもしれない。 | ||
| “小杉焼”というどちらかというと地味な、しかし北陸の生活文化に根差した陶器への | ||
| 愛着と共感が、御風と千靭のあいだには深く芽生えていたのだろう。 | ||
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(藤田一人・美術ジャーナリスト) |
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第13回「富山の文化的風土」2009年3月21日発行 |
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