富山の文化的風土14 「相馬御風と郷倉千靱C─芸術家を育む郷土」

 
     
   芸術家は、縁深い地域の文化的風土とともに、そこに暮らす人々によって育まれてきたも  
  のだ。相馬御風にとっても、郷倉千靱にとっても、それが精神的原風景として創作に影響を  
  与えるとともに、現実的な生活面、経済面で大きな支えとなったことは間違いない。  
  相馬御風は、33歳で東京での生活を切り上げて郷里・糸魚川に戻り、地元の有志たちと 歌  
  会「木蔭会」を結成するとともに、個人雑誌「野を歩く者」を創刊し、創作活動の拠点とし  
  た。そうした御風の活動は、生まれ育った風土から豊かな発想を得るとともに、そこで培わ  
  れた人間関係によって支えられていた。一方、郷倉千の場合は、東京で活動を続けたが、  
  郷里・富山県小杉町に熱い視線を注ぎ続けるとともに、郷里の人々も、“オラが国”の日本  
  画家を育てようと、支援に力を惜しまなかった。  
   そんな郷倉千靱には、後援会というものが郷里の富山県は勿論、隣の新潟県そして、住居  
  とアトリエを構えていた東京にも組織されていた。東京の後援会は、在京富山県民の有志に  
  よるもの。後援会は、定期的に画会を催し、参加者が作品を購入して、画家の経済的基盤と  
  なった。そうした画会では、和綴じの豪華な画集も作られ、後援者の期待の高さが窺える。  
  その画集の一冊(「千靱後援会畫冊・第一集」1928年刊)を見ると、そこ で画家が描いた  
  作品は、大体尺五といわれる標準サイズの掛軸が主。画題は画家自身が「自ら朝夕身邊草樹  
  の心境に調するもの」と称して、花鳥風月を軸に草叢の虫や川辺の童子等が並ぶ。それらの  
  作品群は、今でも千靱の郷里・富山をはじめ縁ある土地の家々に受け継がれているという。  
     
     
 


「千靱後援会畫冊・第一集」

 
     
   また、そんな地元の文化的支援者達との関係は、さらに地域を越えて広がっていくことに  
  なる。御風と千靱が交流を深めていくに従って、例えば、千靱が郷里の知人に御風を紹介し  
  て、歌会に入会させてもらったり、御風に歌の書を所望したりしていた。また、「野に生き  
  る者」の定期購読者を紹介したりもしている。逆に御風の方からも、知人に「掛軸でも」と  
  相談されると、親しい千靱を紹介して、絵を依頼していたのだろう。そうしたやり取りが、  
  互いにの手紙の端々に見受けられる。  
 

そんな中の一つ、千靱が御風に宛てた手紙に、次のような記述がある。

 
   「山の井の御主人さんは拙作御覧の上大変お悦びになったそうで私も心喜敷存じますが謝  
  礼の件につき却つて心配を相かけ相済まない気がします。もともと貴台からの御依頼にて最  
  初より貴台のためになにか良いものを描き度いと云ふ様な心持でゐるのですから物質的報酬  
  云々に対して最初から問題にしてゐないのでありますから左程心配なく願上ます。(略)  
  新潟の今成氏主催の作品(一尺五寸巾四尺五寸普通の掛物)及会費は一点三百円となつてゐ  
  ます。画面の大きさから申しますと丁度約倍以上の大きさに当たりますが若御都宜敷ば新潟  
  の会費にても結構と存じます」(1929年3月1日)  
   手紙で触れられている“山の井の御主人”とは、多分、島根県松江・玉造温泉の旅館の主  
  人だろう。御風を通して千靱に作品の依頼があり、仕上げた作品は相手に気に入られた。そ  
  れで、御風が「画料は如何程か?」と依頼主に代わって問い合わせた。それに対して、千  
  はあくまで御風が間に入ってくれたから描いたので、幾らでもかまわないというのだが、そ  
  れでは相手も判断しづらいので、新潟での後援会による画会の頒布価格を記しているという  
  わけだ。また、それに続けて、いいひとを紹介してくれたということで、「其内貴台にも何  
  か小品なりともお贈りしたいと存じております」と書いてもいる。  
   今日のように美術市場というものが発展する以前、画家はもとより芸術家というものは、  
  地縁を軸とした、親密な人間関係によって支えられ、育まれていた。こうしたやり取りは、  
  一つの証に他ならない。  
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第14回「富山の文化的風土」2009年5月21日発行

 
     
     
     
 
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