富山の文化的風土15 「相馬御風と橋田東聲と郷倉千靱」 |
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郷倉千靱には、相馬御風をはじめ、画家以外にも様々な文人、知識人との交流があった | ||
。ある一人との交流は、さらに互いの交流関係の輪を広げていくことにもなる。それを通 | ||
して、画家の興味や世界観というものも広がりを見せるというわけだ。 | ||
そうして千靱が親交を持った文人の一人に、歌人の橋田東聲(1886〜1930)がいる。橋 田 | ||
東聲は高知県出身で、本名を丑吾(うしご)という。東京帝国大学経済学部を卒業後、東 | ||
京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社するが、病気のため二年で退社。その後、斎藤茂吉 | ||
に刺激を受け、「アララギ」に短歌や評論を発表。以降、東京農業大学、法政大学等で農 | ||
政学・経済学の講師を務めながら、短歌雑誌「覇王樹」の創刊に参加。独自の作歌、評論 | ||
活動を展開した。前田夕暮や北原白秋と親交を持ち、情感豊かな歌の世界を追求するとと | ||
もに、「長塚節論」をはじめとして自然に根差した力強い表現を尊重した。そうした芸術 | ||
観が、大正末から昭和の初めにかけて、画家・郷倉千靱との交流にも繋がっているのだろ | ||
う。東聲は、郷倉千靱の絵画について、次のように論じた。 | ||
「郷倉さんは實によく草と童子を描く。よく屢々描くのみではなく、これを描く時、君 | ||
の筆致は最もヴヰヴヰッドに活らきかける。これは恐らく郷倉さんの禀性(テンペラメン | ||
ト)に歸すべきであろう。そこに又藝術の特質と價値とがある。(略)一草一木といへども | ||
その生命を摑むことは決して容易のわざではない。一生を要しても或人には及び難いであ | ||
ろう。又丹念に、克明に、『もの』を見る者にとっては、一木のうちにも一草のうちにこ | ||
んこん尽くるなき生命の不思議を見出すべきである。一個の土くれにも無限の啓示があ | ||
る」(「美之國」1926年5月号『草土と童子の作家』) | ||
そうした評価は、“たましいの寂”と評した、相馬御風と共通するものがある。何でも | ||
ない、自然の中に息づく生命の活力こそ、芸術の原点であるという姿勢は、東聲が晩年研 | ||
究を続けた長塚節の世界とも通じる。そういう縁から、東聲と千靱は互いの家を訪れては | ||
、様々な芸術談義、短歌や美術について語り合うようになったということだろう。そして | ||
二人の共通の友人として相馬御風がいたことも忘れてはならない。 | ||
昭和初めのある日、世田谷の千靱宅を訪れた東聲は、夜まで話に華を咲かせて、興に乗 | ||
ったのか、二人して糸魚川の相馬御風宛に絵葉書で便りをしよう、ということにでもなっ | ||
たのだろう。 | ||
「久々で上馬に千靱さんをおたづねしました 蛙のこゑを気ゝ乍ら御馳走になり、御噂 | ||
をしております 東聲 | ||
今夜は静かな夜であります 二人で蛙のこゑをきゝながら良寛様の話を楽しんでゐます |
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千靱」(1927年6月13日) |
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いまなら、電話かメールで済んでしまうところだが、遠い友に想いを馳せながら、一夜 | ||
の心持を、同じ葉書にしたため、送る。なんと優雅な交流だろう。 | ||
しかし、それから三年後、橋田東聲は腸チフスを患い、44歳という若さで亡くなった。 | ||
千靱の優雅な交流も美しい思い出となった。 | ||
(藤田一人・美術ジャーナリスト) |
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第15回「富山の文化的風土」2009年5月21日発行 |
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