富山の文化的風土16 「郷倉千靭と赤倉@

 
     
   郷倉千靭は40代から晩年にかけて、毎年、春、夏、秋の一ヶ月ほど妙高高原は  
  赤倉の山荘に滞在して、院展出品作の制作に当たった。千靭が赤倉の地に深い愛  
  着を持ったのは、彼が尊敬する日本美術院の創始者である岡倉天心の終焉の地だ  
  ということも大きかったが、それは同地に親しむなかで、さらに深く育まれるよ  
  うになったともいえる。  
   郷倉千靭が赤倉にアトリエを構えることになったのは昭和の初め、ある越後の  
  素封家が赤倉温泉近くの広大な土地と温泉分湯の権利を買い受け、新赤倉温泉分  
  譲地の開発に乗り出したのが切っ掛けだという。素封家は分譲地宣伝のために、  
  著名文化人にその一部を無償提供すること考え、横山大観に白羽の矢を立てた。  
  そして大観も、かつて師・天心が日本美術院を赤倉に移転する意図を持っていた  
  ことから、当地に院の研究所を設ける構想を持っており、その話に乗った。  
  そこで大観は美術院同人の何人かに声を掛け、提供される土地に山荘を構えるこ  
  とを促すが、なかなかいい返事が返っては来ない。それでも富山県出身の千靭に  
  は、執拗に妙高高原の雄大なる景観の素晴らしさを語り、千靭もそれに折れる形  
  で、先輩・大智勝観とともにその分譲地を見に行くことになったのだ。それが  
  1932(昭和7年)9月のことだった。  
   そうして訪れた千靭は一目で同地を気に入り、早速分譲地の一角に自身の山荘  
  を建てることを決めたという。立地は、「唐松林があり、その林の中にはいぼ岩  
  であるが、やはり大きな岩があった。その近くには白樺の木が散在し、裏は崖と  
  なり、その下は郷田切りの雪溶けの清冽な水が流れる小さな渓河である」(「高  
  志人」19628月号)と。  
   その冬、当地の山荘が完成したことを聞き、家族で訪れ、子供たちはスキーに  
  興じ自然を満喫する。  
   「この雪の中に建てられた新しい家は、ほんの山小屋にふさわしい、いかにも  
  お粗末なものであったが、台所のうしろの小さい浴室の硝子戸を引くとコンクリ  
  の浴槽に透きとつた温泉がこんこんと浴槽から溢れていた」(同前)  
 

さらに春に山荘を訪れた千靭は当地の豊かな自然姿に改めて感銘を受ける。

 
   「山の新緑を見に一ヶ月余り滞在した。妙高山の残雪はまだ皚々として裏の渓  
  川の水音が、雪溶けの増水のため音をたてていた。新緑の高原は別天地で、時  
  鳥、郭公が鳴き老鶯が頻りに囀り、山つづじや、うつぎの花が全山を色彩り、ほ  
  んとうに百花百禽の好季節である。わらび、ぜんまい、山うど、山筍等々の山菜  
  を採る山の行楽と味覚の楽しいよろこびをはじめて堪能した。また、気分のよろ  
  しいままに、どうやら仕事の能率もよく、また新たなモチーフや構想の上にも、  
  おもいがけなく得るところ多かった」  
   そのお気に入りの山荘を、千靭は「潺々荘」と名付けた。しかし、分譲地の無  
  償提供を約束していた素封家が株に手を出して莫大な損失を出し、新赤倉の土地  
  も手放さざるを得なくなる。そして債権者は、無償提供の条件は到底受け入れら  
  れず、「美術院の先生方には地代等には便宜は図るものの、相当の負担はお願い  
  したい」という。そんななか、元々の首謀者であった横山大観が赤倉への移住を  
  放棄。しかし、山荘を建てた者は、純粋に当地の景勝を気に入り、各々に金銭の  
  都合をつけて山荘を手に入れることになった。  
  郷倉千靭は勿論、大智勝観、そして院展洋画のリーダー・小杉放庵らが当地に山  
  荘を構え、その後の同地で互いに親交を深めるとともに、制作にも勤しむように  
  なっていく。  
     
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第16回「富山の文化的風土」2011年1月26日発行

 
     
     
     
 
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