富山の文化的風土17 「郷倉千靭と赤倉A」

 
     
   「この頃(昭和の初め)、院展出品作品の大きさの制限がなかったので毎夏閑  
  寂の茅舎で六曲屏風の大作を毎夏連続して精進した。大作になると、どうしても  
  絵具を思いきって溜めて描くので、その絵具が乾くまで、畳の上に屏風を寝かせ  
  て描いているために、いつも夜更けまで、寝室にするわけにいかないので、家族  
  のものも随分迷惑した。それで止むなく山の家が出来てから三年目に地続きの土  
  地を求め、少々離れたところに、これは最初から採光を考慮した新しい画室を造  
  った。」(「高志人」19629月号)  
   当初、郷倉千靭は、家族や個人的な憩いの場所として、赤倉の山荘“潺々荘”  
  を建てたのだが、しばらくすると東京よりも整った制作環境を求めて、画室も赤  
  倉に構えた。1935年(昭和10年)のことだった。その後、当地は戦中の疎開先に  
  なったのは勿論、戦後の主な院展出品の代表作は赤倉の画室で制作された。それ  
  以降、千靭の院展出品作は、それまでとは徐々に変化が見られるようになってく  
  る。まずは、モチーフがそれまでの地面やそこに息づく雑草といった素材から、  
  赤倉と妙高高原で味わう雄大で清新なる自然へと変わっていく。さらに、画面全  
  体の色彩が明るくなり、柔らかく優しいコバルトを主とするパステルカラーが前  
  面に押し出されてくるも赤倉の山荘に画室を構えて以降のことだ。  
   千靭が妙高山麓の情景を意欲的にスケッチし、大作に描きはじめたのは、赤倉  
  に画室を構えた1935年から、同年第22回再興院展に出品した「高原新秋」が最初  
  だろう。同作は批評家をはじめ周囲の評価も高く、それまでとは違う新境地を切  
  り開いたと、多方面から評された。  
   「郷倉千靭氏の『高原新秋』はコバルト色の清澄な空に薄雲を見せたところが  
  面白く、また画面の到るところに才気の閃きがある……」(春山武松 「大阪朝  
  日新聞」913日)  
   その後、千靭の代表作のひとつになる1936年(昭和11年)改組帝展出品の「山  
  の秋」と続く。  
   時の帝展松田改組により、推薦作家のみによって開催された改組帝展の出品さ  
  れた「山の秋」で、千靭のモダニズムは確立されたと言っていい。そこにも勿  
  論、新赤倉の山荘で味わった、爽やかな妙高高原の自然の情景と空気が反映され  
  ている。  
   「山のひんやり澄んだ大空の下に錦する美しいいろいろの草樹にいつしか画  
  心が動いた」(「美術」19364月号)とその制作の発端を語っている。そして、  
  その作品は、妙高の自然を写生しながら、鮮明で瑞々しい色彩に、モダンな構成  
  力に古典的な装飾性も加味した、そうした昭和に入って以降、大正期の草土社風  
  の土着的写実主義から脱して、モダンで軽快な画面が芽生え始める。同作は、ナ  
  イーヴな童画的世界観が評価を得て、外務省買い上げとなった。  
   「この作家としては理解され易い取材、構図の妙味、何か一つの世界を持って  
  いゐるところに、立派な存在を主張してゐる。推奨候補だったこともうなずけ  
  る。色調も暖色でリズミカルな響きを與へてゐる」(濤川白里「阿々土」1936  
  4月号)  
   「山の秋」に続き、同じく妙高の自然と水面に映る月を配した「山の夜」  
  1938年)、雪の木の間に佇む山鳥、白樺を描いた「白樺林」(1940年)、「山  
  頂の春」(1941年)等々、鮮やかなコバルト・グリーン、緑青の空に、白色と青  
  等の鮮やかな色が戦中という時代の暗さとは対照的に明るい世界を展開した。そ  
  れらは戦後に至る郷倉千靭の画業の評価を決定付けていくことになる。  
     
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第17回「富山の文化的風土」2011年1月26日発行

 
     
     
     
 
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