富山の文化的風土18 「翁久充と郷倉千靱」 |
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郷倉千靱にとって、郷里・富山の風土や歴史、文化は、生涯に渡り自身の核と | ||
してあった。18歳で上京して以降、東京で人生を全うしつつも、心は深く“富山” | ||
に根差していた。故に、小杉焼保存等の文化活動に尽力するとともに、文化人をは | ||
じめとして地元の人々との交流を絶やさなかった。そんななかの一人に、長年郷土 | ||
文化誌「高志人(こしびと)」を主宰し、富山の歴史、文化の発掘や検証さらに振 | ||
興の一翼を担った翁久充(きゅういん・1888〜1973)がいる。千靱も「高志人」の | ||
創刊に際して表紙絵を描く他、幾多の文章を寄稿する等、同誌に関わった。 | ||
翁久充は、現在の富山県中新川郡立山町六郎谷に漢方医の次男として生まれた。 | ||
17歳で上京し、さらに二年後の19歳で徴兵を逃れるために渡米。西海岸の都市・シ | ||
アトルに落ち着き、当地の小学校に入学して英語を学ぶとともに、小説を書き始め | ||
る。そうして地元の邦人紙「旭新聞」に日本人移民の生活を描いた作品を発表する | ||
等、移民文学作家として日系人社会で活躍の場を得た。1912年24歳の折に一時帰国 | ||
し、結婚。しかし、二年後再び単身渡米。小説や詩の創作活動と同時に、邦人新聞 | ||
の編集にも携わる。その後、1929年31歳で帰国して朝日新聞社に入り「週刊朝日」 | ||
の編集長を務め、ジャーナリストとしてのキャリアを積み重ねていく。さらに1933 | ||
年にはインドを訪れ、仏教に傾倒。そして1936年に帰郷し、郷土文化誌「高志人」 | ||
を創刊。以降、一貫して富山を拠点に文化活動に尽力。1958年には富山県の文化 | ||
功労者として表彰された。 | ||
そんな翁久充と郷倉千靱との出会いは、千靱がボストン美術館所蔵の東洋美術作 | ||
品研究調査を目的に渡米した1915年のことだった。 当時23歳の千靱は海路太平洋 | ||
を渡りアメリカ西海岸に到着して間もなく、ちょうど二度目のアメリカ滞在で邦人 | ||
新聞の仕事をしていた翁に会ったという。その折の印象を千靱は後にこう回想して | ||
いる。 | ||
「……なかなか議論好きで私がオークランドの久充氏を始めて訪ねたとき、なん | ||
でも海底の美と画家というような、とてつもないことについて終日論議したことを | ||
覚えている」(「高志人」1955年11-12月号)。 | ||
徴兵回避のためにアメリカに渡ったということからも分るように、少々常識を | ||
超えた大胆な性格の持ち主である翁にとって、芸術に対するイメージも既成の絵画 | ||
や彫刻といったものには留まらないスケールであったのかもしれない。そして、当 | ||
時の若き千靱にとって、それが日本とは違ったアメリカのスケールの大きさに思え | ||
たのかもしれない。 | ||
そうした出会いも、勿論富山の人脈に負っていた。それは、千靱が1910年東京美 | ||
術学校(現・東京藝術大学)の受験に際して、同じく富山県出身、富山県立工芸学 | ||
校(現・県立工芸高校)の二年先輩で、美術学校の彫刻科に在籍していた佐々木大 | ||
樹を頼って上京したことに端を発する。その時、新橋駅に迎えに来ていた佐々木に | ||
連れられて、しばらく滞在することになったのが、翁久充の実兄・玄旨の家だった | ||
とういうのだ。 | ||
「そこには令弟の久二君と佐々木君が三畳の室に机をならべていた、この二人と | ||
よく気が合った私がそこへ割り込んだわけで要するに東京ではじめてワラジを脱い | ||
だのは翁家である」(同前) | ||
そんな翁兄弟の親交は後々の続き、久充が「週刊朝日」編集長時代には、千靱は | ||
駒場にあった家をよく訪れ、碁を打ち、夫人の手料理をご馳走になったという。 | ||
一方、「高志人」の創刊するに際しては、千靱は表紙絵を依頼されて、薄群青で立 | ||
山連峰を描いた。そして、戦後も翁と千靱は赤倉の山荘で、度々夜を徹して語り合 | ||
った、と。特に熱くなったのは、仏教やタゴール論といった話題だったらしい。 | ||
郷倉千靱の晩年における宗教画への更なる傾倒にも、翁久充との交友が少なからず | ||
影響を与えたことだろう。 | ||
(藤田一人・美術ジャーナリスト) |
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第18回「富山の文化的風土」2011年5月23日発行 |
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