富山の文化的風土 19 佐々木大樹と郷倉千靱」

 
     
   郷倉千靭が初めて本格的な美術教育を受けることになったのは、富山県工芸学校  
  (現・富山県立高岡工芸高等学校)13歳で同校の漆工科に入学した千靱は、そこで  
  美術・工芸の基礎を学ぶとともに、良き師、友と出会い、それが後の人生への大き  
  なステップとなった。同じ富山県は下新川郡愛本村(現・黒部市宇奈月町)出身で、  
  木工科の二年先輩、後に“大樹”と号して彫刻家として名を成す、佐々木長次郎と  
  の長い友情もその一つだろう。千靱との交友については、佐々木の回想によると、  
  当時の同校ならではの厳しい寄宿舎生活によるところが大きいという。  
   「舎監は父として保障の任にあたり、上級生は兄、下級生は弟として上級の者に  
  は服従し、例えば、就寝時に下級生は上級生の床を敷くなど、長幼の礼のきびしさ  
  はもちろん、食事の銘を作り、食前にはかならずこれを唱えて感謝の念を新たにす  
  るなど、万事が家庭的、自治的な規律をもって処理されました」(『佐々木大樹の  
  人と芸術』 1982年 「平和の像」建立委員会刊)。そんな環境で二人は出会った  
  。「三・四年生のとき、寄宿舎で冬期間だけ同室した人に、二年後輩の郷倉与作  
  (のちの千靱画伯、芸術院会員)がいた。うまが合うというか、彼とは仲が良かっ  
  た。わたしは彼を弟のように可愛いがって面倒をみたし、彼もまたよくこたえてく  
  れた」(同前)と。  
   工芸学校卒業後、佐々木は明治41(1908)に東京美術学校彫刻科に進学。それ  
  から二年後の43年には郷倉千靭も東京美術学校日本画科への進学のため上京。その  
  受験の際に面倒を見てくれたのも、先輩の佐々木だった。千靱は佐々木が下宿して  
  いた同郷の翁玄旨家から美術学校の入試に挑み、合格を勝ち得た。その翁玄旨が、  
  後の富山の郷土誌「高志人」の発行者・翁久充の実兄であることは、以前書いた。  
   東京美術学校でも親しくしていたという二人だが、卒業後は発表活動の拠点を異  
  にすることになる。佐々木大樹は1913(大正2)に同校彫刻科木彫部を卒業後、研  
  究科に進み、20年に時の帝展に初入選で特選に輝き、華々しいデビューを飾る。そ  
  の後22年に再び帝展特選と平和記念東京博覧会で銀賞受賞。1928(昭和3)には帝  
  国美術院賞を受賞。まさに戦前の官展から戦後の日展の流れを代表する木彫作家と  
  して、着実にその地位を築いていった。その作風は木彫によるガッシリとした力強  
  いフォルムが印象的で、仏像や神話を題材とした作品群が定評を得た。一方、郷倉  
  千靭も20年に帝展に初入選を果すが、その後は院展を主なる舞台として活躍するこ  
  とになる。  
  しかし、二人の間には不思議な縁というものがあるのだろう。同じ美術学校で後進  
  の指導に当たることになるのだ。郷倉千靭は1932(昭和7)、その二年後に佐々木  
  大樹が、現在の武蔵野美術大学の前身である帝国美術学校に教授として招かれる。  
  さらに35年の多摩帝国美術学校との分裂に当たってはともに同校に移り、戦後、多  
  摩美術大学へと発展を遂げるなかで教授の任に当たった。そして折しも1966(  
  41)、同大の定年制導入に当たって、ともに退職した。  
   木彫と日本画の違いはあっても、同じ富山県の出身で、高岡、上野と学校をとも  
  にした同世代、そして晩年には、仏教を主なるテーマに独自の宗教表現を追求した  
  佐々木大樹と郷倉千靭。二人が富山の文化的風土と大正から昭和にかけての近代的  
  センスを共有しつつ、長い親交を通して互いに切磋琢磨し合ったことは間違いない  
  だろう。  
     
     
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第19回「富山の文化的風土」2011年9月5日発行

 
     
     
     
 
Back