富山の文化的風土4 外側から見た郷土−郷倉千靱の世界観  
     
     
   「富山の作家(美術家)は、富山を出ることから作家活動の第一歩が始まる」  
  と、富山県水墨美術館の学芸課長・浅地豊氏は開口一番語った。  
   富山県出身の美術家は、多かれ少なかれ、その宿命を負っている。それは今日  
  も変わらない、地方出身者の実状であり、地方と中央の関係でもある。しかし、  
  そんななか、美術家は自身の原風景を外側から見つめなおし、アイデンティティ  
  を確立していくことになる。日本画家・郷倉千靱(18921975)もま た、その  
  宿命を背負いつつ、独自の絵画世界を追求したというわけだ。  
   「郷倉千靱は、富山県の小杉町(現・射水市)に生まれ育ち、高岡の富山県立  
  工芸学校漆工科から東京美術学校日本画科に進み、さらに同校卒業の翌年にはア  
  メリカに留学する。そうしたキャリアはスタートから、より広く、大きく、豊か  
  な世界を求めて、飛躍しようとする意欲がひしひしと感じられる。だからといっ  
  て、生まれ育った郷里・小杉を捨てたわけではない。むしろ、より広い世界、大  
  きな世界から、郷里を自分なりに再確認、再発見しようとしたのではないでしょ  
  うか」そして、郷倉千靱の絵画世界の確立について、浅地氏はこう続ける。  
   「地方から首都・東京に出て、さらにアメリカに渡った千靱にとって、世界が  
  大きく開かれた。そんな中で、近代絵画というものの力強さを見せ付けられるこ  
  とにもなった。つまり、日本と日本の絵画を外側から見たとき、それはあまりに  
  も虚弱に見えたと思うんです。そうして若く意欲的な日本画家は、西洋的なモダ  
  ニズムを意欲的に吸収し、自分のものにすることで、より強靭な日本画を目指し  
  たと思うんです」  
   郷倉千靱の画業を決定付ける、明快な色彩を駆使した、和やかで寓話的雰囲気  
  を醸し出すモダンな絵画世界は、西洋絵画に負けない強い表現を求めて生み出さ  
  れたというわけだ。しかし、そんな彼のモダニズムが戦後、晩年に至って微妙に  
  変化する。その切っ掛けとなったのが、1960年のインドに旅行。それは、京都・  
  東本願寺大谷婦人会館の壁画制作に際しての仏教美術研究を目的にしたものだっ  
  た。そして、翌61年に同壁画「釈迦父に会う図」完成以降、宗教 や神話的モチ  
  ーフにたびたび取り組み、69年には大阪・四天王寺大講堂「仏教 東漸」を描く。  
  そうした作品の数々は、以前にも増して、強い色調で彩られ、表現の様式化が強  
  調されている。それが、従来の身近な動植物をモチーフにした作品に比べて、表  
  現が硬くなっていることは否めない。それに関して、浅地氏はこう考察する。  
   「晩年の仏教をテーマにした作品に関して考えると、千靱にとって、それを一  
  絵画作品として仕上げるという以上に、もっと大きな狙いがあったように思うん  
  です。千靱はインド旅行で模写やスケッチを多数しています。が、むしろそれ以  
  上に、仏教資料を精力的に収集し、持ち帰っている。彼の興味は単に仏教世界を  
  描くだけではなく、仏教そのものに及んでいる。そんな中、絵画制作というもの  
  は一つの選択肢であって、彼の世界観の総てではない。日本画、絵画というもの  
  を超えた、もっと広い、大きな、文化というものを、彼は追い求めていたような  
  気がするんです。しかし、そうした晩年の千靱が追求しようとした世界観に関し  
  ては、未だ研究が手付かずのまま。今後、彼の収集した仏教資料の調査によって  
  少しずつ、それが解き明かされていくとおもいます」  
   言わば、一画家の視点を超えた、総合的文化観、価値観の探求者としての郷倉  
  千靱。それは、小杉焼の研究、普及といった、郷里への目指しにも垣間見える。  
  そして、そうした幅広い視線というものは、絶えず外側から自身を見つめるとい  
  う、富山の文化的風土に培われたものなのかもしれない。  
     
     
 

  (藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第4回「富山の文化的風土」2007年2月21日発行

 
     
     
     
 
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