富山の文化的風土5 - 郷倉千靱の宗教画観  
     
   戦後間もなく、鮮やかな色彩と明快な構成を活かしつつ、ほのぼのとした雰囲  
  気を湛えるモダンな花鳥画の世界を確立した郷倉千靱。そんな画家の絵画世界が  
  晩年に至り変化を遂げていくことになるのだが、その発端となったのが1961年、  
  仏教美術研究のために旅したインドでの体験が大きかったことは確かだろう。  
   当時、読売新聞社社主の正力松太郎から京都東本願寺大谷婦人会館の壁画を依  
  頼された71歳の画家は、その仕事に意欲を燃やし、構想を練るために早速インド  
  に飛んだ。季節は、インドの盛夏とされる5月。連日気温が40℃に達する、まさ  
  に猛暑のなかを、娘・和子を連れて博物館や仏教寺院、遺跡の数々を訪ね歩き、  
  仏教美術の真髄をその眼で確かめ、精力的に模写や資料収集を行なうとともに、  
  ガンジスやヒマラヤの大自然にも接し、仏教を生み、育んだ世界観を実感する。  
  そうした体験を通して、画家は、仏教美術は勿論、宗教芸術というものは、単に  
  宗教的な物語世界を表現するのではなく、深い信仰心によって宗教世界そのもの  
  を創造するものだという思いに至るのだ。帰国後、自身によって書かれたインド  
  紀行というべき文章にも、それは感じられる。例えば、アジャンター、エロラ、  
  そしてエレファンタの洞窟内壁画や仏像に接した折の深い感動を書いている。  
     
   「・・・・・・われわれ個人の芸術などは、ほんのチャチな一片の仕事にしか思えな  
  い。幾十万人の人たちが幾世紀にわたり信仰とその目的のために一魂の高度な精  
  神力が帰一されて精進完成したこれらの偉大な洞窟を見るごとに、ただ茫莫とし  
  た無限感にうたれるのみであった」(「読売新聞」 1961715日(夕刊)『インド  
  まんだらC』)  
     
   そうして精力を傾けた壁画「釈尊父王に会いたもう図」は、二年後の1963年に  
  完成する。千靱ならではの明るく、鮮やかな色調の下、インドでの模写などで学  
  んだ聖人そして俗人の表現様式を積極的に取り入れ、釈迦が父であるシャーキヤ  
  族の国王に会うシーンを、具体的で強い臨場感を前面に押し出す。それは、シャ  
  ープなモダニズムと神秘的な古代インドの様式美の融合と言える。以後、郷倉千  
  靱は、同様のスタイルで宗教や神話の世界を盛んに描くようになる。ただ、そこ  
  には、モダニズムの都会的なスマートさは影を潜め、強い色と形が画面上で鬩ぎ  
  合うような、少々ぎこちない印象が顕著になってくる。その理由の一つとして、  
  花鳥画に見る絵作りの絶妙なバランス感覚に比べ、晩年の宗教画に関しては、絵  
  作り以上に描くべき宗教世界そのものへの意識、傾倒が強いことが挙げられるか  
  もしれない。千靱自身、自らの宗教観について、浄土真宗の盛んな富山を含む北  
  陸地方の土地柄に育まれたものとしてこう語ったという。  
     
   「幼いころから浄土真宗としての仏法を朝夕念願する雰囲気のうちにはぐくま  
  れていた私には、いつしか宗教心というものが目に見えない心の奥にきざみ込ま  
  れていたような気がする」と。  
     
   そうした郷土の文化的風土に根差した信仰心の篤さが、その原点というべきイ  
  ンドの仏教世界を体験することで、強く自覚的なものになったということか。あ  
  る意味、郷倉千靱晩年の画境も、富山の文化的風土と決して無縁ではないという  
  わけだ。  
     
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第5回「富山の文化的風土」2007年5月10日発行

 
     
     
     
     
 
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