富山の文化的風土 8 - 郷倉千靱のアメリカ@ 親友との約束 | ||
郷倉千靱にとっての人生のステップは、まず小杉町(現射水市)から同じ富山県 | ||
内の高岡の県立美術工芸学校に入学したことに始まり、卒業後上京して東京美術学 | ||
校に入学したこと。さらに、美術学校を卒業した翌年に一年半アメリカに留学した | ||
ことだろう。特に、二十四歳で渡ったアメリカでの経験は、その後の日本画家とし | ||
てのキャリアにおいて、他にはない大きな影響を与えた。そんな渡米の夢は東京美 | ||
術学校時代に親友とともに膨らませ、本来は二人揃って叶えるはずだった。郷倉千 | ||
靱は後年、その親友との交流と彼の人生について、日本経済新聞の「交遊抄 画人 | ||
と運命」と題されたコラムに書いている(1963年11月3日朝刊)。それを読むと、当 | ||
時千靱が取り組んでいた宗教画への傾倒は、彼自身の根っからの信仰心とともに、 | ||
東京美術学校で出会った友の存在と深く繋がっているようにも感じられる。 | ||
同コラムで千靱は、その親友を“M”と記している。Mは、愛知県は三河地方・ | ||
岡崎の農家の生まれ。両親は熱心な仏教信者で、父親は農業の傍ら仏画を描いてい | ||
た。そんな両親の下で育った彼も信仰心が厚く、学校の成績も優秀だったが、父の | ||
希望に沿い仏画家を目指して東京美術学校に入学した。そんな友人に刺激されて、 | ||
仏教はもとより古今東西の宗教、哲学とその美術に興味を持ったという。そしてコ | ||
ラムを書いた当時は千靱もMも齢70を越え、前者は東本願寺大谷婦人会館の壁画を | ||
完成。一方、美術学校卒業後郷里に戻り、農業と仏画制作に勤しんでいた後者は、 | ||
養子に農家を譲り「無我、無欲、淡々として水の流れるような澄みきった心境」に | ||
あった。千靱はそんな旧友の生き方を遠方より想いつつ、自身の仏教世界を探究し | ||
ていったように思えるのだ。 | ||
「人生そのものが運命か宿命かまた幸不幸かは知らぬが、私はMの静かな心境を | ||
ただ限りなく尊く思うのである」と。 | ||
ところで、そんな友と渡米の夢を如何に膨らませたのか。コラムにはこう書かれ |
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ている。 | ||
「卒業する直前、この二人は、とほうもない大きな望みをいだいていた。それは | ||
学校を卒業したら十年計画で米国に渡り、ボストンやメトロポリタンの有名なミュ | ||
ージアムの古名画や近代絵画を見ること、そして二人の個展を開くこと、それがう | ||
まくいかない時は労働しても必要なだけの金をためて欧州に渡り、命がけの勉強を | ||
するという約束であった」卒業後、さっそく二人は旅費の工面を始める。千靭は一 | ||
年間作品制作に励み、郷里・小杉町(現射水市)で画会を開いて資金を得た。Mの | ||
方は、父親が支援するということになり帰郷。しかし、半年後に病に倒れ、渡米を | ||
諦めざるを得なくなる。そうして結局、翌1916年に千靱一人でアメリカに旅立つこ | ||
とになった。しかし、その千靱もアメリカの第一次世界大戦参戦のあおりを受け | ||
て、たった一年半で滞在を切り上げ帰国せざるを得なくなった。 | ||
しかし、予定よりは短い留学体験ではあったが、千靱は大陸を横断しながら、未 | ||
知なる世界を貪欲に観察し、新たな知識を吸収して思考を深めていく。それは美術 | ||
にとどまらず先進国アメリカならではの諸々の社会問題に及ぶ。なかでも、宗教・ | ||
思想に対して強い関心が示され、様々な美術館を巡って最も心惹かれたものの一つ | ||
が、東洋の古典だったという。つまり、千靱はアメリカで自身の根本にある東洋そ | ||
して日本の思想、宗教観、美意識に目覚めたというわけだが。そこには、心ならず | ||
も行動を共に出来なかった親友の想いが重ね合わさっているような気がする。 | ||
(藤田一人・美術ジャーナリスト) |
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第8回「富山の文化的風土」2008年2月21日発行 |
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