富山の文化的風土1 (おぼろな原風景と光の希求) | ||
米林雄一(彫刻家・東京芸術大学教授) |
私は昭和17年に東京の豊島区で生まれましたが、戦争末期の昭和20年に父の | ||
郷里である富山県射水郡小杉町黒河村に疎開。中学卒業まで、当地で過ごしまし | ||
た。その後富山県立高岡工芸高校を経て、金沢美術工芸大学、そして東京芸術 | ||
大学大学院へと進むわけです。そんななかで、私の原風景、さらに美術家として | ||
の精神的土壌を育んだものとして、富山県の気候および文化的風土に負うところ | ||
が大きいのかもしれません。 | ||
私の父・菊男は井波彫刻の修行をして、菊彫人と号し、その後上京して当時の官 | ||
展である帝展などに出品していました。そして主に仏像や欄間を彫っていました。 | ||
富山県は浄土真宗が盛んな土地柄で、町の有力者が仏像を寺に寄進することが | ||
盛んに行われていて、そんな関係からか、井波彫刻という伝統的な木彫が繁栄。 | ||
その流れが、時を経て、民家の欄間の彫刻などにも及び、現在では、経済産業 | ||
省から「伝統的工芸品」の指定を受けています。 | ||
私が彫刻を志したのも、父の存在があったことは間違いなく、その背後にあった | ||
富山の木彫の流れというものが、今日の私の木を用いた仕事の原点としてあるの | ||
かもしれません。 | ||
そして、私の伯父も里見米庵という日本画家で、京都絵画専門学校卒業後、同じ | ||
小杉町出身の郷倉千靱に師事して、院展に出品していました。富山県の小杉町と | ||
いう、農業以外に大きな産業がない町で、私の身近に二人の美術家がいて、とも | ||
に苦学、苦労を重ねつつも、郷土の文化的風土を拠り所に、自らの道を探り続け | ||
たということが、私のなかにも、どこかで息づいていることはあると思います。 | ||
ところで、富山の風土というと、何にも増して、雨が多く、湿っぽくて暗い、とい | ||
うことでしょう。日本海から来た雲が、立山連峰にぶつかって雨を降らせる。夏は | ||
暑く湿度が高く、秋になってほっと一息ついたかと思うと、間もなく、雨が霙にな | ||
り、雪へと変わる。そんな裏日本特有の気候のなかで、私たちが日々目にしていた | ||
自然の光景とは、いつも霧がかかったような、ぼんやりとしたものでした。 | ||
そして、私が東京に出てきて驚いたのは、毎日が晴天で、明るい光が燦々としてい | ||
るということでした。ある意味、富山の気候風土に育まれた者には、その湿った暗 | ||
い原風景とともに、それゆえの光への希求というものもまた強いのかもしれません。 | ||
二紀会委員。平櫛田中賞。現代日本美術展・ 日本国際美術展出。金沢美大。 東京芸大大学院修。 |
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文責:美術ジャーナリスト藤田一人 |
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第1回「富山の文化的風土」2004年4月28日発行 |
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