富山の文化的風土 3 (瀧口修造の墓)  
     
   小杉町民図書館の館長・萩野恭一さんは、瀧口修造の“墓守”を自任する。  
   瀧口修造は日本のシュルレアリスムの先駆者で、昭和初期から詩人、美術評 論家  
  として多くの芸術家に影響を与えた。瀧口は、明治36年、富山県婦負郡寒江村  
  大塚(現在の富山市大塚)に生まれた。大塚は、小杉町に隣接する地域。昭和54  
  年東京で没した彼の遺骨は郷里に戻り、大塚の龍江寺に墓が建てられた。墓石は、  
  黒御影石の高さ50p、幅70p、奥行き上部20p、下部30p程で前面が上か  
  ら下へなだらかに傾斜する。表には「瀧口修造」とだけ。裏面には、デュシャンの  
  若かりし頃の女性の偽名で、瀧口の架空オブジェ店のためにデュシャン自身から送  
  られたという「Rose Selavy」の脇に「TOKYO」と添えられ、その下に生没年の  
  1903.12.7-1979.7.1」と刻まれる。そして墓石 の側面には、建立者である妻・  
  瀧口綾子の名前。それは田舎の寺にあっては、少々違和感がなくはない。  
   萩野さんは、郷土の生んだ文化人の象徴として、様々なお客さんをその墓に案内  
  する他、ことある毎に墓参りをする。そうして、瀧口をはじめ多くの先達の文化人  
  が郷里・富山を離れていったのに対し、自身がそこで生き続けていくことの意味を  
  問うのだという。  
  「・・・・・・瀧口修造はふるさとで生きる私の指針となった。あいまいに物事を考える  
  自分を謙虚にさせるこわい存在として心にとめて、生きてきた。とはいっても、瀧  
  口修造の世界を夢みた時から、私の胸にはりついたままでいた訳でもない。瀧口修  
  造が遠くなったり、近くなったりしながら、私がふるさとでの生活に悩み始めた時  
  、ハッキリと背後に瀧口修造を意識した。ただ、ぴったりとではなく、自分の胸中  
  から追い出すように、生きてきた。なぜなら、瀧口修造の世界にのめり込むことは  
  危険であるからである。それがふるさとでの安全な生き方であった。私は『自称  
  墓守』として、瀧口修造との接点を保ってきたいといえる」  
  (「とやま文学」4号 昭和613月)  
  と、かつて萩野さんは、瀧口への思いを書いた。そこには、華やかで躍動的な文化  
  状況に憧れ、東京などの大都市に出て行きたいという絶ち難い思いとともに、郷土  
  を離れ、又捨てて生きていかなければならない者の精神的喪失感を入れざるを得な  
  い、という厳しい現状認識がある。そして、そのことを痛感させられたのが、瀧口  
  修造の『私にとってふるさととは何か−澄明な存在の核心』なる文章だった。  
   「おそらく、ふるさとは人が生を受けた瞬間にはじまる、あくまでも澄明な存在  
  につながるものであり、現世において人権の存在理由にもつながる『始まり』の意  
  味ではなかろうか。(略)早く故郷を離れてしまった私個人についていえば、ふる  
  さとに対して言い知れぬ借りを抱きつづけている。おそらく私はそれを清算しきれ  
  ずに死ぬかも知れぬ。しかし『ふるさと』はその純粋な初心を失わずに、いよいよ  
  広大無辺のものに拡大しつつあって、しかも絶えず世界の試練に堪えてゆかなけれ  
  ばならぬことだけは強調しておきたいと思う」  
  (「北日本新聞」昭和46年1月6日付・朝刊)  
   そこから導き出された、郷土に生き続ける者の役割とは、ふるさとへの借りを清  
  算出来ずにいる者の受け皿となり、彼らをやさしくふるさとへと迎え入れることで  
  はないか。萩野さんの“墓守という言葉には、そんな響きがある。  
   それはある意味、瀧口同様、郷里の富山・小杉町から離れた、郷倉千靱にとって  
  の“小杉焼”の存在と相通ずるものがある。  
     
     
 

 

 
 

(藤田一人・美術ジャーナリスト)

 
 

第3回「富山の文化的風土」2005年4月11日発行

 
     
     
 
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